[対談vol.3]赤井孝美×岡雄一(米子市文化振興課)『米子城補完計画』

[対談vol.3]赤井孝美×岡雄一(米子市文化振興課)『米子城補完計画』

対談動画

前編

後編

対談

赤井孝美と岡雄一

米子城を愛する二人の特別対談が実現。今回の対談相手は米子市文化振興課の岡雄一さん。米子が誇る国指定史跡「米子城跡」。これについて熱く、ねばっこく語ります。

今回の対談は米子市さんと正式にコラボレーションさせていただきました。対談映像の方は米子市の公式YouTubeチャンネルで前編公開、赤井孝美百貨店YouTubeチャンネルで後編を公開します。

本当は面白い米子城

僕らが子供の頃って、あそこ(米子城跡)は普通の山っていうか、遊び場だったって感じです。【岡】

米子城対談

赤井どうも、赤井です。今日はですね、素晴らしいゲストが。僕からすると、「米子城の主(ぬし)」…米子市役所の岡さんです!自己紹介をお願いします。

岡雄一こんにちは、米子市文化振興課の岡といいます。私は、以前は米子市の教育委員会だったんですけど平成24年に米子市文化課というところに来まして、以来米子城に関わってですね、9年やってきました。文化課、文化振興課、そして文化観光局という形で関わってきて、また文化振興課に戻ったという形ですね。

赤井僕と岡さんは、だいたい同世代じゃないですか。僕らが子供の頃の米子城って、あんまり市民に関心が無いというか、どちらかというと「人柱伝説」だったりだとか、焼身自殺した人がいただとかもありましたね…あと部活で登らされたとか、そういう話ばっかりでしたけど、最近すごい米子城ってのがちょっと扱い違いますよね。

岡雄一そうですね。たしかに僕らが子供の頃って、あそこ(米子城跡)は普通の山っていうか、遊び場だったって感じです。湊山球場に裏から勝手に入って野球したりだとか、単なる山や広場というイメージで「城」だとかはあまり…。

赤井単に「城山」って呼んでましたよね。

岡雄一ええ、「米子城」っていうイメージはあまり無かったかなと思いますね。

赤井すぐ近くに、現存天守のある松江城があるので、米子の人のイメージからすれば「松江は城があるけど、米子はもう無い」でしょうし、あと「米子城も昔天守があったけど、風呂場の焚きつけにした伝説」があるじゃないですか。

岡雄一そうそう、「風呂屋の焚き木伝説」ね、あれが本当にまことしやかに囁かれて、僕らの頃もどちらかというと既にそのイメージですね。米子人って城を焚き木にして売っぱらって燃やしちゃったんだと…。

「もうそんな古いお城なんかは壊して燃やしちゃったんだ」という話をドヤ顔でする【赤井】

それに引き換え松江の人は、代々城を大事にしてと…。赤井それに引き換え松江の人は、代々城を大事にしてと…。

岡雄一そうなんですよね。それがね、なんかこうネガティブ伝説のような形で足を引っ張ってるんじゃないかというところがあるんですよねぇ。

赤井あー、なるほど。むしろ僕は子供の頃のイメージとしては、米子ってどちらかといえば新しいもの好きの商人の街というところで、「もうそんな古いお城なんかは壊して燃やしちゃったんだ」という話をドヤ顔でするみたいな、ちょっと誇らしげでしたよね。

岡雄一あー、権力に反してみたいなね。そういうところもあったかもしれませんね。たしかにね、そのときはそう思ってたかもしれないんだけど、今となっては「ちょっと損失だったかな」と思われてきてますね。そしてみんながそう思っちゃって、「米子には何も無い。大事なもの、良いものが無い」というようなのが定着してしまったかなという気はしてますよ。

米子城天守閣

立派な石垣が残っているということは、それを宝として意識していく【岡】

米子城天守閣の話
赤井そうですよねぇ。でもなんか、調べてみると明治の頃にお城を壊して処分したっていうのは普通であって、全国に200とか300とかあったお城のうち天守が残ったのは、たしか明治以降では30くらいで…。

岡雄一そうですね、もう今となっては12ですしね。

赤井たしか、昭和初期の頃は20くらいあって、そのうちいくつかは空襲で失くなって、戦後13になって、1コ火事で燃やしちゃって…(笑) それで今12ですよね。米子城も最近よく言われるじゃないですか、天守を再建しようって。ああいうのってどうなんですか?

岡雄一うーん、たしかに地域の誇りとしてそういうものをドンと建てようというのは、気持ちは解かりますし、あるに越したことはないのかなという部分もあるんですけど、ただその、昔からずっとそれを守ってきただとか、残っているというのは価値があると思うんですけど、新しく建てるというのはどうなのかな、ちょっといろいろ考え方あるのかなとは思いますね。

赤井ふぅん、そうですか…。

岡雄一むしろ今ある、たとえば石垣などが現存してあるわけだから…石垣だって全国見れば全然無いところだってあるわけですよ。

あれだけ立派な石垣が残っているということは、それを宝として意識していくっていうのも、ある意味市民として必要なのかなと思ったりもしてます。

赤井ご存知無い方も多いと思うんですけど、米子城って天守が非常に珍しくて、山のてっぺんに2つ天守があったというもので、いわゆる連郭式の天守とはまた違うんですよね、天守の横に四重櫓があって…。

岡雄一そうです。まあ、四重櫓が立派だったってことですかね。2つの天守のように見えるというか。

赤井ただ四重櫓も、再現した絵などを見ると、櫓というか天守の様式ですよね。

岡雄一そうですね。

赤井そして大きいほうの天守は、熊本城の宇土櫓(うとやぐら)くらいのサイズでしょうかね。

岡雄一そうですね、かなり大きいサイズだったと思います。

シンボル

山のてっぺんにあるから「山城」だけど、海辺にあるから「海城」でもある【赤井】

山のてっぺんにあるから「山城」だけど、海辺にあるから「海城」でもある【赤井】赤井それが、米子のようなまっ平らなところに 90メートルの山があって、その上に建っていたら、高層建築も無くて家がたいてい平屋だった時代にはものすごい高層建築に見えたでしょうね。

岡雄一ですね。やっぱり街中から見たときには、威圧というよりは「すごい!なんだこれは!」というくらいの、シンボルっていうかね。そして海のほうから見たときにも、大きなものがグワッと海にせり出してくるように見えるから、多分それは「あんな立派な城ちょっと攻めにくいや」と防御にも有効だったと思います。

やっぱり昔は海から攻めるというのが常套手段だったと思いますし、中海からの交通というのもあったので、そこから見ると海に向かった城という形もあったわけですから、米子城は街から見たらシンボルになり、海から見たら威圧して防御にもなるというような両面があったんじゃないかと思いますね。

赤井ああ、なるほど。「海から」とおっしゃいましたけど、米子城のひとつの特色として海に面してるっていうのがありますよね。山のてっぺんにあるから「山城」だけど、海辺にあるから「海城」でもあるというところが珍しいと聞きますけど。

岡雄一そうですね。やっぱり「山城」ってのは山の中ですよね、標高200メートルとか300メートルとかそういうところにお城があるっていうのはすごいんですけども、じゃあ米子城に上がったときに何が見えるかっていったら、中海や日本海が見える…大山が見える…中国山地の山々が見える…そして足元には街並みが見える…そんな景色が全部見えるってなかなか全国でも無いと思いますよ。

赤井たしかに、そうですよね。

岡雄一その景観の素晴らしさっていうのは誇れるかな、と。

「スーツと革靴で登れる山城」ということを言ってるんですよ。【岡】

「スーツと革靴で登れる山城」ということを言ってるんですよ。【岡】赤井うん。登ってみたときに「登ったー!」って感じしますし、そんなに高くないので登りやすいですよね。お年寄りなんかも登ってたりして。

岡雄一一応キャッチフレーズとして、「スーツと革靴で登れる山城」ということを言ってるんですよ。

赤井あー(笑)


岡雄一仕事してて昼休憩に「あー、今日は天気良いから登ってみようかな」という気分でスーツと革靴で10分ほどで階段登れちゃうという山城は、これ本当になかなかありそうで無いんですよ。

気軽に登れる山城

自分の足で登ったほうが、楽しい【赤井】

自分の足で登ったほうが、楽しい【赤井】
赤井そうですよねー、なるほど。

岡雄一山城って普通、構えて行きますよね。登山のカッコウしてとか、車で麓まで行ってとか。それが米子城は自転車で行って、スーツで登れるというのは、なかなか他には無いと思いますよ。

赤井僕も東京時代、八王子城にちょっとした買い物帰りに登ってみたんですけど、めちゃくちゃ大変でした(笑) 「こりゃいかん」と思いました。

岡雄一近くでいえば鳥取城なんかも山城ですよね。あそこの久松山も標高200メートルとか 300メートルとかけっこう高いんですよね。そうすると、それはもうひとつの登山であり、「なかなか散歩では行けないよ」って言われたりして。

見た感じはだいたい鳥取城などと近い高さなんですけど。それはそれで楽というか、逆にちょっとそれが無いと登れないなという高さ赤井うん、そうですよね。途中の石垣があるところまで行って、みんな引き返してくるみたいな。前、岩国城に行ったんですけど、あそこはもうロープウェイがありますね。見た感じはだいたい鳥取城などと近い高さなんですけど。それはそれで楽というか、逆にちょっとそれが無いと登れないなという高さなんですよね。

岡雄一松山城なんかもロープウェイあって、たしかにあれはあれで楽しいですけど、米子城はなかなかあれを付けるっていうことにはならないのかな。あればベターですけど。

赤井まあ、そうですね。自分の足で登ったほうが、楽しいっちゃ楽しいといえますし。

岡雄一たしかに、いろいろなもの見れますからね。

実体験で感じた面白さ

これはすごいわ。素晴らしい、なんとかしてみんなに伝えきゃ」と実感【岡】

これはすごいわ。素晴らしい、なんとかしてみんなに伝えきゃ」と実感【岡】
赤井岡さんは、もともと米子城に興味をお持ちだったんですか?それともなんか、役目上というところからのスタートとかなんですか?

岡雄一正直言ってね、さっきもちょっと触れましたけど、子供の頃って単なる遊び場だったし、城だとか文化財だってことはあまり意識無かったんですよ。

けど、やっぱり仕事でそういった文化財のひとつとして米子城を見たときに、実際に自分で登ってみて体験したり、いろいろ資料を見たりすると、なんか「けっこうすごいな」と思いだしてきて。

それから何遍も足を運ぶようになり、そのうちにしっかりと「これはすごいわ。素晴らしい、なんとかしてみんなに伝えきゃ」と実感してきまして、今けっこう一生懸命いろんなことをさせてもらってるんですよ。

赤井僕も米子に帰ってきて、米子の地域を元気にしたいなということを考えたときに、米子ってどんな街なんだろうと歴史を一応調べたわけですよ。

そうすると、やっぱり米子城が吉川広家により築城され、そのあと中村家が入り、それから城下町が整備されてというのが米子のルーツだと、「ああ、なるほどなるほど」と思って米子城を見ていると、お城に詳しい人からするとなかなか評価が高いというところが分かってきて、自分でも登ってみたりして、知識がついてくるとあの石垣なんかもすごい見ていて面白いですよね。

岡雄一うん、そうですね。

石垣

技術もそうだろうし、あと動員力といいますか、労働力をあれだけ動員できる力があったというのが、すごいですよね。【赤井】

技術もそうだろうし、あと動員力といいますか、労働力をあれだけ動員できる力があったというのが、すごいですよね。【赤井】
赤井特に、作られた年代がわりと違っていて、おそらく最初の築城の 1600 年くらいのものも残っていたり、それと江戸時代のものと、幕末のものと、あとわりと最近修理したものもあって、それぞれ石が違うじゃないですか。

岡雄一そうですね、積み方も違いますしね。

赤井あの石っていうか、石の種類が違うのって何でなんですか?

岡雄一たぶん、持ってきた場所なんかも違うんじゃないかと思いますし、切り出し方なんかも違いますし、だから色も形も積み方も違いますし、古いほど一言でいえばまあ荒っぽいというか、そんな感じなんですけども…ちょっとね、僕もあまりそこまで詳しくないんですけども、いろいろ産地が違うっていう話も聞いたりします。

赤井あれ、どこから持ってきたのかって思いますよね。

岡雄一ええ。あれ、昔はどうやら深浦のほうから切り出してきたやつを運んだだとか、あそこの城山ってそもそも岩山なので、その石切り場みたいなところがあってそこから切り出して積んだっていうのと、2つ混じってるんじゃないかなというのが私の推測ですけど。

赤井ああ、なるほど。あと、内膳丸ってあるじゃないですか、あの上のうは石垣があるんでしょうけど下のほうを見ると岩ですもんね。岩の上に石垣乗っけてる、みたいな感じですもんね。

岡雄一そうです、だから本当に自然の地形をある意味上手に利用してるんじゃないかなと思います。

裏側にも、石仏巡りのコースをぐるっとまわって深浦のほうに出たときに、ちょうど石切り場っぽいところがありまして、おそらくそこから切り出したのかなっていう痕跡もあったりするんですけど。

まあいずれにしても、あの急な城山を、どうやって石を運んだのか積んだのかってすごい先人の知恵というか苦労というか、びっくりしますよね。

赤井技術もそうだろうし、あと動員力といいますか、労働力をあれだけ動員できる力があったというのが、すごいですよね。

岡雄一そうですよね。

赤井僕ちょっと聞いた話だと、鳥取県西部地震(2000 年)のときに修理が必要になって、そしたらもう鳥取県内には石が無くて、結局隠岐の島から持ってきたって伺ったんですが、それだけもう石垣に使える石は無いってことなんでしょうかね。

岡雄一無いでしょうね、おそらく。あれだけの大きい石を用意しようかと思ったら、やっぱりどこかから持ってこないといけないし…。

それになんか面白い話でね、昔江戸時代に組んだ石垣って地震があってもけっこうへっちゃらだったんですよ。

それが昭和時代に積み直した石垣は崩れちゃったりしていて、そういうことからも、いかに昔の技術がすごいのかっていうことなのか、それとも 1 回積み直しちゃったりすると弱くなるのかなとか、いろいろ考えさせられますね。

今の理論で計算しても正しい適切な数値になっている。【岡】

赤井だいたい、信長が安土城を作って、そこから築城ブームがあって、そのあと徳川幕府ができて「城の新築しちゃダメ」みたいなことになった数十年の期間の間に日本中の城って作られてるじゃないですか。おそらく、その時代に技術がぐわーっと高くなって、以後はもう失われる技術というか。

岡雄一そうですね。あの、穴太衆(あのうしゅう)っていう石積みの専門集団みたいなのがいて、彼らは機械や製図機なども無い当時に自分の頭の中で石積みの設計図を作って組み上げたものを現地で実際に出来て、それがすごい強度を持っていて今の理論で計算しても正しい適切な数値になっているというのがすごいなと思ってるんですけど。

だから、石垣を修復したりすることによって逆にそうした技術を今日に逆算するというか、「ああ、こうやってるんだ」というのに気付いて、それを伝承していけるチャンスになったりもするんですけどね。

登り石垣

イメージとしては中国の万里の長城ですね。【岡】

「登り石垣」とか「竪堀(たてぼり)」赤井米子城は最近だと、「登り石垣」とか「竪堀(たてぼり)」とかいろいろなものが見つかってますけど、登り石垣というのがどういうものなのか岡さんからご説明お願いできますか?

岡雄一登り石垣は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに陣地として城を作った中で、やっぱり港を守らないといけないという使命があったことから、山の斜面に沿って石垣を作っていって…。まあイメージとしては中国の万里の長城ですね。

万里の長城のように石垣を張り巡らして囲ってしまえば敵が入れないというような発想をもって、普通石垣って廓(くるわ)に対して平行に作っていくんですけど斜面に沿った形で登っていっているので「登り石垣」というんです。

赤井そうですね、日本のお城って基本的に地平線や水平線にとって常に平行ですよね、それが地形に沿って登ってるっていうことなんですね。

岡雄一だから、廓とか建物の壁というよりは、やはり斜面の防御壁みたいな役割があったんだろうといわれてますね。

赤井なるほどなるほど。

岡雄一それを、朝鮮に出兵していた人たち―加藤清正とか、米子でいえば吉川広家とかが日本に持って帰って、実際に自分のところで築城技術として使ったということで、米子城に登り石垣が残っていると今いわれていますね。

赤井今、登り石垣が現存しているお城って、全国にどれくらいあるんですか?

岡雄一えっと、たしか米子城が 5 例目だったと思います。

赤井5例目ですか。僕ね、松山城にあるのは知ってるんですよ、松山城に行ったときにガイドの方に説明してもらったので。そのときは実はあまりよく分からなかったんですけど、米子にもあったのか、と。

岡雄一今は登り石垣自体もけっこう土とかに被って分かりにくいんですけど、ちょうど内膳丸分かれのところに立って見ると、たしかに石垣がこう遠見櫓のほうに向かって延びていくのと、もう一つは内膳丸のほうに石垣があって、「ああ、こう繋がっていくんだな。

これが防御壁になっていたら、たしかに海のほうから攻めてこれないかな。」というのが体感できるというかね…。

赤井そうですよね。今はもう登城口もあって、内膳丸と登り石垣の間も通路になっていて、エッチラオッチラ上がっていけますけど、作ったときはおそらくあそこは海側から来ないようにビシッとしてたでしょうね。

岡雄一ええ。それで、今の通路のところに門があって、そこでシャットアウトし、あとはもう石垣の塀があるというような感じですよね。

その頃は安来が山陰の中心だったのでは。【赤井】

赤井米子城が今のようにできる前って、米子ってそうとう何も無いところでしたよね、たぶん。

岡雄一そうですねぇ、まあ港町だったりしたのかな、灘町あたり…あそこが一番古い町だと言われてますので。まあそれくらいで細々と、漁業やったり商業やったり、そんな感じじゃなかったかなぁと思ってますけどね。

赤井僕思うに、たぶん安来がその頃(山陰の)中心で、米子も地形が良いから港にしているけど、ちょっとはずれのほうだったのかなと思ってます。

そこに富田城も残したまま吉川広家が米子城を築いて、天守があって城下町があってというような設計をして、その後関ヶ原のあとに吉川さんがいなくなり中村家が入り、一方出雲の富田のほうには堀尾家が入り、堀尾さんも堀尾さんで富田にしばらくいたんだけど「やっぱりここ、山の中でしんどいな」と、平地の松江に移転したわけですから、米子も松江もそれぞれお城があって町ができるという中で、元は富田なんだなって思いますね。

ですから我々ももっと富田城に感謝してですね、登らなきゃって思うんですけど、(歴史学者の)磯田(道史)さんじゃないけど下まで行くと「う~ん、ここ登るの…またにしよう!」って(笑)

岡雄一それは物理的に大変なんですよね(笑)

月山富田城

平時でもなかなか登るのは…あそここそ、ロープウェイつけてほしいなと思いますけど(笑)【赤井】

米子城と月山富田城赤井そうなんです、難攻不落ですから(笑) 富田城って落城したことないんですよね、包囲されて「もうアカン」って降参したことはあるけど、攻め落とされたことがないという。それはちょっと、平時でもなかなか登るのは…あそここそ、ロープウェイつけてほしいなと思いますけど(笑)

岡雄一あそこは登ってみると本当にね…七曲りのところに今は良い道できてますけど、上がっていくにつれて下がどんどん小さくなっていって、街なんかこんな小さく見えて「これは大変なところだなぁ」と。

あれを昔、戦国時代に登って攻めようというのは、なかなか難儀な城だなと思ってまして、規模的にはやっぱり山全体を使ってるような感じですから、たしかにこれは難攻不落だなというのは上がってみるとなんとなく実感はできますね。

赤井うん、そうですよね。まあ僕上がってみたことなくて下から見上げただけですけど(笑)

岡雄一えっ、上がってみたことないんですか!

赤井上がってみたことないんです、上がりたいなと思って近くまで行ったんですけど、もう午後だったので、明るいうちに帰ってくる自信が無いなと…。

岡雄一暗くなったら道に迷いますよね。

赤井そうです、危険ですよー(笑)

ニシキノウミ

「なるほど、これで錦の海なんだ!」【赤井】

米子城から見える錦の海
赤井僕、米子城は夜上がってるんです、友達と満月の夜に。

岡雄一あ、月見会されてますよね。

赤井はい、月見会をされてる方々がいて、誘ってもらって行くようになってですね。コロナだなんだがあって、今ちょっと中断してますけど。

岡雄一いつだったか、なんか(赤井さんと城山で)出会ったことが…。

赤井ああ、はい。だいたい夕方5時くらいに、麓のところのスーパーで飲食物を購入いたしまして、登るわけですよ。それで、米子城って上のほうにトイレが無いじゃないですか、なので先におトイレを済ませておき、だいたい5時半くらいに枡形に集合してですね、そこからエッチラオッチラ登ると、季節にもよりますけど、陽が落ちてきて太陽が西の中海のほうに沈んでいくんです。

中海って古い呼び方で錦海(きんかい)―錦の海って言いますけど、「なるほど、これで錦の海なんだ!」ってくらいキラキラ光って、その向こうに太陽が沈んでいって、ふと振り返ると向こうの大山が夕陽を受けてまたシルエットが綺麗に…。

岡雄一ああ、赤く見えたりしますね。

赤井ええ、そしてその大山の方角から今度は満月が上がってくると、その両方を見ながらこう一杯やっていると、いやまあ贅沢な景色ですよね。

岡雄一たしかに。

赤井普通、そういう贅沢な景色を見ようかと思ったら、すごい遠くまで行かなきゃならないんですけど、街中にあるじゃないですか(笑) それで、ちょっと暗くなるまでひとしきり何やかんややって、とっぷり暮れたところでまあお片付けをして、降りていってまた飲み直すみたいな、そういう会をやってます。これ、皆さんにもオススメです。

米子城から見る景色

「米子城18万石の夜景」【岡】

「米子城18万石の夜景」【岡】
岡雄一いやホント、是非多くの人にもやってもらいたいと思っていて、米子城から見る街の夜景は本当にキレイだし、あの夜景ってなかなか街中で見れない。

大山から見る米子の夜景ってあるじゃないですか、あれやっぱりキレイなんですけど、米子城からだともっと足元に、手の届きそうなところに夜景が見れちゃうんですよね。

あれはまあ勝手に、「米子城18万石の夜景」って言ってますけど。

赤井なるほど、18万石の夜景(笑)

岡雄一それくらいの価値がある夜景だと。100万ドルはねアメリカ単位ですから、米子単位だと18万石、まあ金額にすればどれくらいかは分かりませんが(笑)

まあ、かなりのもので、それを気軽に見に行けるのと、さっきも言われましたけど夕陽、これはまさに錦海!夕陽って本当に季節によって沈む位置も違うんですよね、それで夏場あたりかな、ちょうど中海の真ん中辺りに沈むときって、パーっと太陽の道筋が見えたりとかして、そしてそれが沈んで雲なんかが出てるとそれも真っ赤に焼けたりなんかして、もうこれは何ていうか筆舌に尽くしがたいというか、すごくキレイで全体が赤く染まるような感じ。

それがだんだん青く、暗くなって夜景が映えてくるっていうような。そして月が出てきて、今度は満月が煌々(こうこう)と。ストロベリームーンって時々あるじゃないですか、あれなんか本当に大きく見えるんですよ。太陽が昇ってくるがごとく月が昇ってくる景色って、これはもうすごいですよ。

雪が積もっている米子城って年に何回も見られないんです。【岡】

雪が積もっている米子城って年に何回も見られないんです。【岡】赤井そういえば岡さん、雪が降ったときも登ってましたよね(笑)

岡雄一雪はね、米子城でいつどんなときが一番好きかって聞かれたら雪が積もってるときっていうくらい、実は大好きなんですよ。


赤井ほぉー。

岡雄一実はね、雪が積もっている米子城って年に何回も見られないんです。下手すると1回か2回くらいしか無いかなというところで、今年はたまたまけっこう降ったので1月から何回か雪が積もってるときに上がったりしたんですけど、去年だったかな、なんか 1、2回くらいしか無い上に登ろうかと思うとすぐとけてたりしてというところなんですけど、あの雪の米子城は美しいです!

赤井雪が降ることによって、残っている石垣の段差が強調されるというか、プラモデル作ってる人には分かると思うんですけど「ドライブラシ」というプラモのモールドを浮き立たせる技法がありましてね、わりとそんな感じで「あー、あんなところにも石垣があったのか」とか、城の構造が見えてくるといいますか。

岡雄一そうですね、キレイに白色を引き立ててくれますね。

赤井昔は米子城って、こんもりした森で、全部木で覆われてて、上のほうにちょこっと石垣が見えるっていう感じだったんですけど、今はすごい石垣全体が見えるようになってきましたよね。

米子城跡保存整備事業

ぶっとい木ががんがんあって石垣に食い込んでいて、なんか自然の力ってすごいなと感じますね。【赤井】

米子城跡保存整備事業岡雄一あれは米子市が米子城の保存整備事業という形で、令和元年くらいかな、整備計画に基づいて整備進めてるんですけど、その中で一番ポイントになってるのがやっぱり樹木の伐採というところで、毎年いろいろなところを伐っていってるんですけど、まあそれは石垣に影響のある木を伐ったりだとか、登っていく人の安全のためだったりとか、あるいはビューポイントを確保したりだとかいうことがあるんですけど、やっぱりそれをすることによって見え方が全然違ってくるんですよね。


今まで木に覆われていたところの木を実際に伐ってみたら「あ、ちゃんと石垣があるじゃないか」とか、そうするともう全然スケール感が違うし、そういうところに雪が積もったりするとなおさらキレイに見えるしということで、これは本当に良いですよ。

赤井自然の樹木ってのもすごく良いものだと思うんですけど、成長がすごく早くないですか?

岡雄一早いですね。本当に何十年か前は多分そんなに木も大きくなくて下からもいくらでも石垣が見えたっていう話を聞くんですけど、今は本当に気の太さも1メートルとか2メートルとかがザラにありますしね。

赤井あれは木の種類としては何なんでしょうかね?

岡雄一えっと、大きいのなんかは楠木です。枡形のところにもどーんとありますよね。

赤井ああ、ありますよね。ああいうでっかい木を見ると、イメージ的には樹齢何百年みたいな気がしますけど、実際には何十年くらいなんですかね。

岡雄一意外とそうですね、まあ何百年のはなかなか無いんじゃないかなと思います。

米子城跡保存整備事業赤井たしか昭和40年代に一度自衛隊があそこで演習をして、そのときについでか分からないけど木をいろいろ伐ってくれたので、そんなに古い木は無いはずだと思うのに、ぶっとい木ががんがんあって石垣に食い込んでいて、なんか自然の力ってすごいなと感じますね。

おそらくずっと手を入れずに米子市が放っておけば、僕らがもう歳とって死ぬ頃には全山飲み込まれて「風の谷ナウシカ」的な光景になってるのかなと(笑)

岡雄一本当にそうですよ。いつだか豪雪のときに雪の重みで木が倒れちゃったとき、枝が折れたりなんかはよくあるんですけど、一緒に地面まで持って行っちゃって。

深浦のほう側で 1 回そういうのがあってそれの修繕をしたんですけど、そういうのが続くともう山自体が崩壊しちゃうというか、城のためにも安全のためにも良くないし…。

赤井そうですよね。その木の成長の早さを聞いたときに、「たたらの国」である山陰で、単に鉄が採れるというだけでなくそれを溶かす燃料としての木が猛烈な勢いで成長するんだなと思いましたね。

岡雄一あー、そうですね、そういうこともあるかもしれませんね。

赤井やっぱそれは、もしかしたら山陰に限らず日本中そうなのかもしれませんけど、僕聞いた話ですと、この出雲・伯耆の山陰のたたらの人達がこっちの木を伐りつくして、彼らは中国地方全体の伐採権を持っていたので岡山や広島、山口や島根の西部のほうに行き、そして帰ってきたらこっちはまた木が生い茂ってたという話を聞いて、そんな自然の豊かさってのはすごいですよね。

岡雄一たしかに、そういう自然の力とかを利用しながら、まあ鉄(砂鉄)なんかも自然ですよね、そういうのが自然発生的にこの地で栄えたというのも、そういうのが上手く絡み合ってのことなのかもしれませんね。

物語とキャラクター

「クライマックスが戦闘しない」戦国ドラマ【赤井】

「クライマックスが戦闘しない」戦国ドラマ【赤井】
赤井米子城の物語というと真っ先によく聞かれるのが、やっぱ「米子城騒動」「米子騒動」といわれる、横田内膳が中村一忠に手打ちにあって、横田一党が立てこもって合戦になるというようなことなんですけども、まあそれはそれで非常にアツいといいますか、横田内膳という人物もそんなに知られてないと思うんですけどクセの強いといいますか面白い人じゃないですか、馬力があって、いかにも日蓮宗の人らしい信念のためにすごい行動力があるけどそのために起こる軋轢にはあまり興味が無いみたいな(笑)

たとえばストレートに日蓮を想像しちゃうような人物だと思うんですけど、そこに柳生宗章なんかも絡んで、しかも実際に鎮圧したのは米子の城兵というよりは頼まれてやってきた(まだ松江城が出来てないから富田城からやってきた)堀尾家の軍勢で…そういうようなところもすごく面白いんですけど、その一方で、あくまでローカルな話なので、僕としては広く全国の人と共有できる話としてやっぱり吉川広家なのかなと思っているんですよ。

吉川広家って、横田内膳同様あんまり皆に知られていないと思うんですけど、ちょっとWikipedia見ただけでも「この人ちょっと変なんじゃないの(笑)」っていうくらい、戦めちゃくちゃ強いですし、謀略もやるし、城造りも上手い、行政も上手い、そして関ヶ原の戦後処理で毛利家が潰されそうになって「毛利存続運動」をしたときの、なんていいますか世の中を動かすパワーというか… 家康は完全に毛利家を潰すつもりでいたのに、吉川広家のいろいろな運動で残っちゃったわけですから。

これはそうとう、すごい人だなと。なんかこの人をもっとドラマ的に取り上げたら、現代に通じるすごい人になるんじゃないかって思ったんですよ。

吉川広家が米子城を 1591 年に築城を始めた岡雄一そうですね、やっぱり吉川広家が米子城を 1591 年に築城を始めたということがあって、ただわりと米子では完成させたといわれる中村のほうが城主といったような感じで名前が有名なのかもしれないけど、中村の城主っていうのも地味というかよく分かんないですよね、まあ若かったっていうのもあるかもしれませんけど。

それに比べると吉川広家っておっしゃるように、関ヶ原という歴史上一番重要なところで関わっていたというところが、ひとつドラマなんだろうなと思いますし、やっぱ毛利を守ったということ、それはなかなかできないことだと思うし、人間的な魅力があったんだろうなと思いますね。

赤井僕は、「毛利を守った中心だ」という昔の武士の鑑みたいな視点で見ると面白くないんですよ。当の毛利の当主の毛利輝元はもう戦やる気満々で、天下取りたかったわけじゃないですか。

ところがその家来の吉川広家はもう、毛利輝元の度量で天下取れるわけないし、これから天下を泰平できて統一できるのは家康しかいないから家康を勝たそうとして主君の意に背いていろいろ内通して、その結果戦に敗けても毛利が残るような段取りまでつけておいて、ところがその段取りに上手く乗っからなかった輝元がいろいろな書類残しちゃったせいで「やっぱり毛利アカンやん、もう潰すで」って言われたときに家康に向かって出した手紙が残ってますけど、「ご存知だと思いますけど、ウチの輝元はアホだからあんなことしたので、これからは言い聞かせて決してアホなことはさせませんから、もし今後徳川に背くようなことをしたら私が斬りますので、とにかく毛利の名前は残してください」と言って毛利を残させたというところが、まあちょっと(他に)無いし、それを取り次いだ黒田だとか井伊だとか徳川方の大名もみんな「吉川広家がここまで言ってるんだから、毛利残してあげましょうよ」というような口添えもおそらくあって、たぶん家康としては本当に毛利は潰しておきたかったと思うんですけど、それを残させたというのは、僕はすごいなと思うんですね。

それに、150年くらい皆戦ばっかりして続いた戦国時代の最後の頂点であり、日本中の戦国大名たちが20何万集まってやる気満々な関ヶ原というところに、しかも西軍の総大将の代理で来ている毛利輝元だとか四国からやって来ている長宗我部だとかやる気満々な2万いくらの軍勢の前に陣取って、それらを戦闘に参加させなかった技量っていうのはちょっと…リアルに想像するともう石田三成のほうからは「戦ってくれ」と来るし、後ろからは「とにかく今だから行こう行こう!」ってときに、「いや。まだ、その機ではない」と言って止められる力というのは想像を絶するものがありますし、何があれを成功させたのかっていうのをドラマ的に掘り下げることができたら、ちょっと今まで見たことない「クライマックスが戦闘しない」戦国ドラマになるんじゃないかと。

岡雄一そうですね、「戦わない武将」と…。

吉川広家を語る赤井孝美赤井それはまあ、なんとなく今までだとズルかったり臆病だったりするイメージで見られてたと思うんですけど、実際に吉川広家の戦歴を見ると戦ったらほぼみんな勝ってるんです。

特に朝鮮の役の加藤清正の蔚山城包囲戦のときは、全軍が集まってから救助作戦をしようと思っていたら、先に着いた広家が敵の構えを見ていたら「こりゃどうも勝てるな」と思って独断で突っ込んだら、名将で有名な立花宗茂なんかも「あー、吉川突っ込んじゃったよ」ということでワーッと突っ込んで、それで鎧の脛当てが落ちるくらいガリガリに痩せた加藤清正を救助したというようなエピソードを思うと、戦えばすごく強いのに一番の戦国のクライマックスで戦わないというところが、すごいドラマができそうだなっていう風に今思ってるんですよ。

岡雄一そうですね、「戦わない戦国ドラマ」みたいな。

赤井それまで散々いろんな戦いがあるわけですよね、吉川広家の初陣から戦国時代ずっといろんな戦いがあるのに、本当のクライマックスでは(周りは)みんなバンバンウワーって戦ってる中で(自分は)戦わないっていう(笑) それは面白いなって思いましてね。

岡雄一人間像としてどういう形に描いていくのかって非常に興味あるんですけど、そのずる賢いわけでもなくて先を見据える力もあって、包容力や説得力もあって…「できた人間」っていうのか、そんなところもあるのかなと思いますね。

赤井どういう人間になったらああいう行動ができるのかって思うんですね。10年かけてようやく作った14万石といわれる米子の領地は失い、徳川からは「毛利潰す代わりにお前には周防、長門2国約30万石くらいをやるよ、よかったね」って言われたら、「いやいやそんな、領土欲しさに裏切ったわけじゃないんだ、毛利を残してくれ、私は全く領地無しでも良いので」というような勢いで申し出て、結局米子の領地の何分の一かの岩国をもらい、その岩国であらたに城を造ったり城下を作って発展させてっていうところはね、なんかすごいって思うんですよね。その人物像をちゃんと描くことができたら、21世紀現代の戦国武将のヒーローになれるのではないかと、すごく思うんですよね。

岡雄一まあ、今までにないタイプですよね。今までこうドラマになったり描かれてきた、いわゆるヒーロー的な感じじゃないけど、実際に歴史に貢献したという意味では大きいですよね。

赤井まあだいたい戦国のヒーローって、戦に勝ってすごく栄光を掴むか敗けて死ぬか、どっちかじゃないですか。

岡雄一ええ。そうじゃくて、世の中をちゃんと作っていくところに貢献しているっていう、その辺がやっぱすごいのかなぁって思いますね。

赤井その人間像を垣間見るのは、これは全く僕の想像なんですけど、岩国といえば「錦帯橋」が有名ですが、何故そう呼ぶかというと「錦川」にかかってるから「錦帯橋」であると。何故あの川は錦川っていうんですか聞くとあまり由来は分からないと…。

いっぽう吉川広家が10年かかって頑張って完成を見ずして手放した米子城の前に広がる中海は当時の名前では錦の海と書いて「錦海」と呼ばれていて…。
同じ武将が作った城の前にたまたま錦の海と錦の川が流れてるっていうのは出来すぎじゃないか、だいたい「錦」って付いてる地名もあんまり無いんですね、だから僕は勝手に想像してるんです。

広家は米子に対して「すごく良い城下町が作れた」という思いがあり、戦も強いけど街作りなんかもおそらく大好きな人で、その人が直前でそれを手放さなければならなかった…新しい領地は石高とかすごい小さくなっちゃったけど、そのときに瀬戸内海に通じるキレイな川が流れているのを見て、そこを吉川広家が「錦川」と名付けたのではないのかなと。

岡雄一そうですね、でもなんかそんな気はしますね。

赤井それで、去年ちょっと岩国へ行きまして、岩国城とか見せてもらったりいろいろと地元の人に教えてもらったんですけど、米子城もよくできた城ですけど岩国城も恐ろしく他に類型を見ない城なんですよね。城の規模としてはそんなに大きくないんですけど、錦川から向こうは総構え式にして。なんていうかな、(広家は)城造りに関しても天才なのかな、と。

岡雄一うん、かもしれませんね。まあやっぱり朝鮮での経験も活かしながら米子も作り、また米子の経験も活かして岩国城を造ったというのもあるかもしれません。まあいろんな意味で、いろんなところに秀でた人というのがあるかもしれませんね。

米子でいうところの「だらず」みたいなのも混じってるのかなと。【岡】

米子でいうところの「だらず」みたいなのも混じってるのかなと。【岡】
赤井いろんなところに秀でているのに、あんまり欲の無い人というのもあるし、おそらくちょっと坊ちゃんだったのではないのかな、毛利家って毛利元就の時代にぐわーっと大きくなって、広家のお父さんの吉川元春なんかも厳島の合戦とか富田城に攻めたりだとか一緒に苦労してるんですけど、広家はもうほとんど物心ついた頃から毛利家は大大名になっていて、その中である種お坊ちゃまの良さを持っているのかなと。

あと、子供の頃のニックネームが「うつけ」っていうのも良いじゃないですか(笑)

岡雄一信長なんかもそんな感じですよね。

赤井そうです。まあ今で言う「うつけ者」っていうニュアンスよりは、なんていうか少し社会のルールにちゃんと乗ってない、不良ってわけじゃないでしょうけど、ちょっと変なヤツっていうようなニュアンスだと思います。

岡雄一ちょっと米子でいうところの「だらず」みたいなのも混じってるのかなと。

赤井あー、そうですよねぇ、「だらず」が近いのかもしれませんよね。

岡雄一そうすると、米子のイメージにもピッタリだったりして…それでキャラクターの絵を(赤井さんが)描くとどんな感じになるのかなと興味があってね(笑) どんな顔になるのか、とか。

赤井あー、そうですねー(笑) 吉川広家の残っている肖像画なんかを見ると、面長の少し何考えてるか分かんない風の人物なんですけど…どんな絵になるんだろう、みたいなことですか?

岡雄一「広家くん」として売っていこうとしたときにどう見せるか、「米子のキャラ広家くんだよ」ってやったときに、ちょっとそれ楽しみなんですよ。

赤井僕、アニメとかマンガではまだ思い浮かばないですけど、俳優さんでいうとなんとなく今は、要潤だと思ってるんですよ。

岡雄一ふぅん…。

赤井要潤っていう、今の大河ドラマ「晴天を突け」では松平春嶽(慶永)を演ってますけど、なんていうんでしょう、強そうなんですけどどこかちょっと凡庸としてるというか。やはりちょっと面長であるというところは外せないな、肖像画とはちょっとは似てて欲しいな、と。

そうすると、マンガやキャラクターとしてもそっちの方向なのかな、と思いますけど、なかなかどう絵にしていけば良いってのは、まだ全然掴みどころが…まあ掴みどころが無い人なんですよ、なんか。

岡雄一どうなんですかね、吉川広家を、たとえばよくあるのが大河ドラマ化しようという動きだとか、それからそれを地元キャラで使っていこうだとか、パンフレットにしてマンガだとか物語にしていこうってのはいろいろあると思うんですけど、どうやっていくと面白いかなって思うんですよね。

まあ月山富田城なんかも、山中鹿介をドラマ化しようというような活動をしておられたりするし、でもどうなのかな…大河ドラマとかそういったものにハマっていくのかなっていうところがあるし…。

「うわー、こいつヒーローやん!」って思う。【赤井】

赤井僕は、広がればおのずと大河ドラマにはなるので、「大河ドラマにしよう運動」みたいなのはあまりしないほうが良いのかなと思います。

それによって地域が興るのはすごい良いことだけど、地域興しを目的とした大河ドラマというのは…別に悪かないですけど、あまり自分自身ではそういうことをしたいわけじゃないんですね。

ただ、山陰の歴史的人物でいわゆる全国区のドラマになり得るのは、僕は吉川広家オンリーかなと思います。あとは大国主命くらいしかないんですけど古代はちょっとドラマにしづらい、あまりにも資料が無いのでファンタジーになってしまうんで。山中鹿介にしても実際に大河ドラマになった毛利元就にしても、ちょっと活動範囲がローカルじゃないですか。全国の人に関わりのあるものっていったら、広家はやっぱりクライマックスに関ヶ原があるってのが良いなって思いますし、あとは秀吉のところに人質に行ってすぐに返されちゃったりとか、家康といろいろ駆け引きをやったりだとか、その中で黒田官兵衛や息子の長政とやり取りがあったりだとか、あとは加藤清正を朝鮮で救ってその際に馬印を譲ってもらったりだとか…まあ譲ってもらったというか、ちゃんと許可して真似してるんですよね。

そういう感覚もちょっと現代人っぽいかなと思うんですけど…そういうようなメジャー歴史人物との絡みもあるし、そういう意味では大河ドラマを目指さないと言いつつも大河ドラマにできるような要素はすごくあるわけで、じゃあ主人公たる広家はどんな人物で何をやった人なのっていうのを、もうちょっと伝わるように整理しないといけないのかなっていう段階ですかね。僕なんかは地元大好きだし、歴史も好きですから、Wikipedia見ただけでも「うわー、こいつヒーローやん!」って思うんですけど、一般の人はWikipedia見て「うわー、燃える!」っていうのは無いわけで、それを分かりやすく噛み砕いて整理して…。

それがやがて最後はドラマ化だとかいろんなところに繋がっていく…【岡】

岡雄一そうですね、赤井さんからいろいろ話を聞いてると、やっぱり(広家の)すごさってのは伝わってくるんですよね。それで、これは米子城も元々そうなんですけど、本当に地元の人ですらあんまり知らないっていうのがあって、そういうことではやっぱりいけないので、もっと地元の人に愛されるような、地元の人に対する故郷教育じゃないですけど、みんなでもっと知ろうよっていうところに向けていくっていうのがひとつ大事かなって思ったりします。

赤井僕はまず第一歩は、地元の人に分かる形でどう伝えるのか、地元の子供や若者にも伝わるように。たとえば、安来の人が長く頑張ったお陰で、向こうの地元ではやっぱり山中鹿介ってのは非常に知られた存在じゃないですか。少なくとも鹿介のような、米子市民にとっての親しみ深い誇らしい人物になって欲しいのかな。

岡雄一たとえば、歴史講座みたいなのもあるじゃないですか、シンポジウムとか、ああいうので吉川広家講座を市民対象としてやって、もうちょっと「ああ、そういう人いたのか」とか「そんな活躍してたんだ」というのをみんなで共有していくような場を少しずつ作っていって、米子市民が広く知るようになって、そうすれば自然に外に広がっていくし、それがやがて最後はドラマ化だとかいろんなところに繋がっていく…そんな流れが一番望ましいかなって感じしますよね。

一緒にできること

僕と岡さんではやれることも違うし、それを一緒にやっていく【赤井】

僕と岡さんではやれることも違うし、それを一緒にやっていく【赤井
赤井まあ後半は分かんないですけど、まず第一歩は、とにかく地元の人に分かってもらうこと。現時点では、ちょっと米子駅前でインタビューしても多分 10 人に 1 人「(広家を)ああ、知ってます」っていう人がいるかいないかだと思うんですね。ですから、そこからなのは間違いないと思います。

岡雄一まあだいたい観光なんかも、外に向かって観光だとか PR だっていうんだけど、やっぱり地元の人が好きじゃないところは観光なんか何の役にも立たないし、地元の人がどれだけ好きか、知ってるかっていうのが決め手になるってことは、やっぱり足元を固めていくってことですね。なんかそれ、いろいろな形でやってみたいですね。

赤井うん、そうですね。多分、僕と岡さんではやれることも違うし、それを一緒にやっていくことによって、それぞれの良さというか得意技が活かせるような…。

岡雄一そういうのをまず少しずつ、小さい講座から始めていって、広く人を巻き込んでいくような形で、なんか「吉川広家をもっと知ろう」みたいね、そういうのが良いかもしれないですね。

赤井そうですね。

『米子城補完計画』、いかがでしたか。米子城を一つとってみても、二人が興味深く感じている点が異なるのが面白かったです。また、赤井孝美百貨店有料会員様限定で対談のオフショットを配信しますのでお楽しみに!

岡雄一

オカユウイチ

鳥取県米子市出身。
関西大学卒業後、米子市役所に勤務。
財政、環境、福祉、企画部門の所属を経て平成24年4月、教育委員会に配属。
文化課長、文化振興課長、文化観光局長を歴任し、令和3年3月に定年退職。
同年4月から文化振興課調整官として、米子城跡をはじめとした米子市の歴史や文化、観光などの業務に横断的に関わる。
在職中、「文化とは つくる、つながる、やってみる!Culture= (Create + Communicate) × Challenge」を合言葉に米子文化の普及啓発を目指した「C‘sプロジェクト」や、ジャズファンのすそ野の拡大と中心市街地の活性化を狙った「よなごまちジャズプロジェクト」などの活動に取り組むとともに、近年は、米子城に関する様々なソフト事業を統括する「米子城 魅せる!プロジェクト」を通じて、米子城の魅力発信や認知度の向上に取り組んでいる。「○○プロジェクト」好きな性分である。
趣味はカメラいじり、ジャズ、城山登城、練習だけのフットサルなど。


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